こっち押立、向こう押立。

大丸建設周辺の「地名の謎」。最後のエピソードは、東京都稲城市と府中市にまたがる「押立」という地名について。おしたて、と読みます。稲城市では押立、府中市では押立町、と言います。

押立という地名は、多摩川の氾濫に備えて、土手を押して立てることからついたと言われています。昔、多摩川はたびたび洪水を起こしており、もともとあった村落が南北に分断して、現在の府中市域と稲城市域に分かれてしまったという説もあります。

そんな名残でしょうか、私が小さい時から、稲城市と府中市ではお互いに、自分たちの押立を「こっち押立」と呼び、多摩川をはさんで向かい側を「向こう押立」と呼んでいました。多摩川にまつわる地名のエピソードは、ほかにもたくさんありそうですね。

いったん「大丸建設周辺の地名の謎」シリーズは終わりますが、おもしろかったので、また時々復活させようと思います。

 

開発著しい若葉台

稲城市で今もっとも勢いのある街は、若葉台といえるでしょう。多摩ニュータウンの開発の中でも後発地域で、現在でもどんどん新しい住宅やマンション、商業施設が相次いでオープンしています。稲城市若葉台の人口は約1万2000人で、小学校は5つにまたがります。京王電鉄若葉台駅は川崎市麻生区に位置し、駅の南側は川崎市内になることから、エリアとしての人口はもっと多く、若葉台駅の2017年の乗降者数は1日27,400人にのぼります。

 

ちなみに、Wikipediaで調べると、「若葉台(わかばだい)は、日本の新興住宅地に多い地名」とされます。稲城市の若葉台近くでも、横浜市旭区の若葉台団地や、相模原市緑区にも若葉台があります。ほかにも広島市、名古屋市、福岡県春日市、鳥取市、福島県いわき市に若葉台という地名があるようです。

美術大学はありません、多摩美。

大丸建設スタッフの坂本さんは、川崎市麻生区から通勤しています。地域の地名の謎について話していた時に、坂本さんは「多摩美が気になる!」と言っていました。

多摩美と書くと、東京都八王子市・世田谷区にある多摩美術大学をイメージする人が多いでしょう。通称「たまび」ですからね。しかし、坂本さんがいう多摩美は「たまみ」です。小田急線読売ランド前駅の北側の地名です。

多摩美は麻生区でいうと細山地区に位置します。1978年(昭和53年)に細山東地区の住所表示が変更になる際に、住民の公募で選ばれた名前です。多摩地区にあり、多摩川や富士山が美しく見渡せる場所であることから、多摩美という名前が選ばれたそうです。

残念ながら近くに美術大学はありませんが、隣の西生田には日本女子大学人間社会学部のキャンパスがあります。

稲城市の百村は100の村?

百村と書いて「もむら」。難読地名の一つが、東京都稲城市にあります。広いエリアなので、大丸建設のお客さまも何人かいらっしゃいます。

稲城市にはかつて、幾つかの小さな城がありました。鎌倉時代に源頼朝に仕えた長沼氏が築いた長沼城、遺稿から南北朝時代に築いたと推定される大丸城など、幾つかの城跡が残っています。百村にある竪神社(たてじんじゃ)付近には百村館が近くにあったと言われています(館とは小さな城の意味)。

百村は明治時代以降につけられた当て字であるとも言われています。もともと複雑に地形が入り組んだ谷戸地であり、裳(も)のように襞のようにヒラヒラしたスカートのような地形から「モムラ」と呼ばれたという説もあります。

 

多摩市の連光寺ってどんなお寺?

大丸建設周辺の「地名の謎」、まだまだ続きます。

聖蹟桜ケ丘の「聖蹟」の由来にもなった多摩市の連光寺。地名でもあり、大丸建設でもお世話になっている大工さんの住まいがあるところでもあります。

 

連光寺には明治天皇の御狩場がありました。

連光寺というと、そこに大きなお寺があるかのように思われますが、かつて蓮光寺という寺院があったと言われています。しかし、現在は地名のみが残り、明治時代の市町村制以来「連光寺村」と呼ばれます。

明治天皇は1881年(明治14年)に初めてこの連光寺村に行幸し、兎狩りや鮎漁を楽しんだと、宮内公文書に残されています。それ以来、明治天皇は4度に渡りこの地を訪れました。1917年(大正6年)までこの御狩場は存続し、即位前の大正天皇や昭和天皇も、この地で栗拾い、キノコ狩りを楽しんだとされています。

旧多摩聖蹟記念館には、明治天皇ゆかりの品々が展示され、天皇家と多摩市の深い関わりを知ることができます。

聖蹟桜ケ丘の「聖蹟」とは?

大丸建設は稲城市にありますが、お隣の多摩市にも近く、ショッピングセンターのある「聖蹟桜ケ丘」駅も営業範囲としてよく回っています。

聖蹟桜ケ丘駅は、住所としては多摩区関戸に位置します。なぜ「桜ケ丘」という駅名がついたのでしょうか。

 

聖蹟桜ヶ丘駅が開業したのは1925年(大正14年)。玉南電気鉄道の「関戸駅」として開業しました。その後、京王電鉄に合併し、1937年(昭和12年)に現在の聖蹟桜ケ丘駅になりました。駅の南が桜の名所であったことから「桜ケ丘」という地名がつき、また明治天皇が行幸した場所であることから「聖蹟」という地名がついたそうです。

聖蹟という言葉からすると、つい、キリスト教の遺跡のようなイメージを抱いてしまいがちですが、天皇が行幸した際に休憩をしたり、座った場所、という意味なんですね。多摩市の連光寺は、明治天皇が狩りをした場所として知られ、その際に休んだのが聖蹟桜ケ丘、ということになります。

聖蹟桜ケ丘は映画『耳をすませば』の舞台にもなり、映画ファンの聖地でもありますね。

調布は調布でも「田舎の方です」。

今月は、大丸建設とその周辺にある「地名」の謎について紐解いていきます。

私たちは地域密着の建設業なので、だいたい、お客さまの物件を「百村の山田さん」「向陽台の吉田さん」といった具合に、「地名+お客様の苗字」で呼ぶことが多いです。

 

私の実家が「調布」にあるというと、「安田さん、お金持ちなんですね」と言われるのですけれど、その度に「ああ、違うんですよ、田舎の方の調布ですよ」と答えます。そう、調布というと東京都大田区の高級住宅街の「田園調布」とよく間違えられます。

 

調布市と田園調布が「調布」という地名でかぶっているのは、地域的なつながりがあるからではなく、昔々にその地域が税を布で納めていたから、という説があります。歴史の教科書で習った昔の税「租庸調」の「調」を「布」で納めていた地域だから「調布」。それが同じ東京都内に地名として2カ所残り、現在に続いている、というわけですね。

 

ちなみに田園調布がある駅は東急線沿線で、東急電鉄はイギリスの田園都市にならったまちづくりを目指していることから、沿線には「田園」を思わせる地名をつけています。

大丸建設、地名の謎

大丸建設の本社がある東京都稲城市大丸。地名は「おおまる」と読みます。でも、私たちの会社名は「だいまる建設」です。なぜ「おおまる建設」にしなかったのでしょうか。

 

大丸建設の始祖は明治初期に天才宮大工との聞こえの高かった石黒善太郎です。初代の善太郎、二代の仙太郎は、それぞれ宮大工として活躍しました。三代目の石黒善次郎が会社の前身となる「石黒組」を組織して建設業としての礎を築き、戦後に株式会社大丸建設として法人を設立しました。

 

その時に社名としたのが「だいまる建設」です。理由は意外と単純で、「大丸(おおまる)にある、大丸(おおまる)建設ではおもしろくないから」という、意外性ねらいでの「大丸(だいまる)建設」命名だったそうです(笑)。今でも、「強そうな社名ですね」と言われることがあるので、三代目の読みは当たったのかもしれません。