一人前の大工になるまでの厳しい修業

江戸時代に一人前の大工になるまでは、厳しい徒弟制度を乗り越えていかなければなりませんでした。親が手付金を親方に支払い、請書を書きます。だいたい12、3歳ごろに弟子入りするケースが多かったようです。基本的に寝食は与えられますが無給で、年に一、二度里帰りできればよかったようです。

朝は飯炊き、掃き掃除と家の用事から、仕事に行くにしても弁当持ち。技術なんて教えてもらえません。よくて道具の名前を教えてもらう程度。熱心な子は仕事を見て覚えていくこともありますが、厳しい修業に耐えかねて逃げ出す子もいたようです。

 

夕方戻ると風呂焚き、飯炊き、布団の世話と、朝から夜まで親方に仕える日々が続きます。こうした年季奉公が8〜10年続くのです。現代ではなかなか考えられませんね。

建設業「華の三職」

大丸建設の初代は江戸時代末期の生まれです。明治、大正、昭和、平成と受け継いできた時代のリレーも、江戸の文化に端緒があります。

 

残念ながら初代とは会ったことも話したこともありませんが、江戸時代の大工や職人のことを知れば、なんとなく初代のことも想像できるような気がします。

江戸時代末期、江戸は人口250万人を抱える世界一の大都市でした。それを支えたのが建設業。大工・左官・鳶職は「華の三職」と言われ、たいへん誇り高い職業だったと言われています。江戸の街をつくったのはオレたちだという自負があったのでしょう。粋でいなせで、威勢がよく、一方で鼻っ柱が強いという特性もあったようです。

職人の系譜

新年あけましておめでとうございます。

大丸建設は9日(火)から営業を開始いたします。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

大丸建設は明治初期に天才宮大工とうたわれた初代・石黒善太郎を始祖に持ち、現社長の安田昭で5代を数える老舗工務店です。時々「自分で老舗というなんて……」とはばかられる時もあるのですが、私が次の社長を継ぐ時には6代目、そして150年の歴史となります。現代まで家業として続いているということは、誇りに思ってもいいのかな、と思います。

初代の後を継いだ2代目・石黒仙太郎は、大正期の名建築を数多く手がけました。東京墨田河畔の藤堂伯爵邸(大正12年9月の大震災で焼失)や、飛鳥文吉邸が代表作品です。

いずれも匠の技と粋を極めた高級木造建築を得意とした初代・二代。彼らの系譜を私たち大丸建設は今に受け継いでいます。