だいまるけんせつオープンカフェ

昨年、大丸建設で始めた小さくも大きな一歩は、「だいまるけんせつオープンカフェ」を始めたことです。不定期開催ですが、イベントのない月の土曜日に本社1Fを地域にひらいて、誰でも立ち寄れる機会を設けました。積み木で遊んだり、木のストラップをつくったり、ご希望に応じて木工作品をつくるなどの体験から、住宅の相談から自然素材の建材展示まで、住まいと木に関わる体験型イベントとして、少しずつ認知されるようになってきました。

そこから出てきたキーワードが「ふらっと立ち寄れる工務店」です。住まいのことで何かお困りの時に、ちょっと相談をしたり、住まいに関する本を読んで理想の生活についてイメージをふくらませたり。そんなきっかけづくりになりうる機会だなあ、と思います。

リフォームとホームインスペクション

新設住宅の着工棟数が減り続け、未来予測も厳しい状況のなか、中古住宅市場はますます広がっていくと考えられます。「ホームインスペクション」という言葉が最近注目を集めています。中古住宅を売買する際に、住宅の状況を診断して適切な価値で取引されるよう、宅地建物取引業法の一部改正の際に、ホームインスペクションが義務化されるようになりました。

大丸建設でも「大丸のリフォーム」をうたい、既存住宅を正しく手入れしながら住み継いでいく提案をしています。建築業界は「新築」だけではない。リフォームこそ、工務店の判断力や提案力、大工の技術力が試される、難しくもやりごたえのある現場と言えます。

大丸建設の「強み」でもある、診断力、技術力を、お客様に信用していただけるよう、ていねいに説明していきたいと思います。

 

さて、今年も残すところあとわずかとなりました。この一年、大変お世話になりました。大丸建設は29日で仕事納めとなります。新年は1月8日(火)から営業を開始いたします。

来年も、頑張ってブログを更新していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

それでは、よいお年を!

大工を抱えている大丸建設の強み

NRIが示す未来年表には、住宅業界にとって厳しい数字が並んでいて、そんななかで私たちのような小さな工務店がどこに活路を見出したらよいのか、真剣に考えていかなければならないのは明らかです。

価格競争ではハウスメーカーにはかないませんが、地域に密着していること、若く技術力のある大工さんを確保できていることは、大丸建設の宝です。今でも「大工不足」が叫ばれていますが、今後ますます大工の確保が難しくなるなかで、今大丸建設の仕事をしてくれている大工さんが、喜びと誇りを感じられる建築現場を持てるよう、私たち工務店は努力していかなければなりません。

明治初期以降、大丸建設が培ってきた「匠の技」は、今後ますます必要とされていくもので、しっかりと発信していきたいと思います。

多摩地域の魅力を発信したい

大丸建設では昨年から、稲城市の「一般社団法人いなぎくらすクラス」さんと一緒に、さまざまなイベントをおこなっています。稲城長沼駅高架下にあるまちづくり拠点「くらす広場」での木工イベントなど、少しずつ、地元稲城と地域活動で接点を持てるようになってきました。

 

4月14日に行われた子供椅子作りのワークショップ

今後、少子高齢化社会がますます進行し、空き家率も高くなってきます。まちぐるみで、どのような地域をつくっていくのか、行政、民間、市民、そして大学が手を取り合いながら考えていく必要がますます高まるのではないでしょうか。

多摩地域の魅力を理解し、伝え、地域で楽しく暮らす仲間が増えていけば……大丸建設も是非その仲間入りをしたいと思っています。

歴史を受け継ぐ大丸建設

様々な文献やインターネットの資料から、江戸時代の大工や職人の文化を紐解いてみましたが、現代に通じることも多く、とても参考になりました。大工棟梁は職人を采配する司令塔であったこと、それは宮大工を始祖とする大丸建設らしさでもあり、今の私の役割にも通じます。

また、江戸の職人は「江戸をつくり、守っているのは自分だ」という強い誇りを持って生き、また街の人たちにも尊敬されていることを知りました。

大丸建設も、東京・多摩エリアで始まり約150年近い歴史を持ちます。私たちのつくった建築が、この地域の風景の一部となり、まちを形作ってきたのだと思うと、背筋が伸びます。また、これから建てる家も、未来の風景をつくっていくのだと心得、美しい、日本らしい住まいを建てて、またその文化を未来につないでいきたいと考えます。

大工棟梁は建築のコーディネーター

江戸時代、大工、左官、鳶職は「華の三職」と言われた花形のスターでした。そのうち大工棟梁は、木造建築の全てを采配する責任者で、職人のコーディネーターでもありました。

左官職人(土壁をつくる)、鳶職(高いところでの作業を専門とする職人)、土工(土木作業、地面の掘削などをおこなう)、基礎工事職、解体業といった、様々な職種を束ねました。

また、木工事に関わる職人を大きく「大工」と総称することもあります。社寺仏閣の建築をおこなうのは「宮大工」。住宅の建築をするのは家屋大工。茶室をつくる数奇屋大工、木造船をつくる船大工、襖や扉をつくる建具大工、家具大工など、様々な「大工」がいました。これらを束ねるのも、棟梁の役割です。

火事と喧嘩は江戸の華

江戸は家事が多く、そのたびに火消しが華やかな活躍をしてきました。また、江戸っ子は気が早くて派手な喧嘩が多かったことから、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が生まれたくらいです。

その火消しに活躍したのが「鳶職」です。鳶職は建築職の中でも高いところに登って仕事をする者で、特に上棟式の時に梁から梁に文字通り「飛んで」仕事をしたので、トビと言われています。梯子に乗って高いところで作業をするので、火事が起こったら真っ先に駆け上がって纏を立て、火消し集団をリードする役割を果たします。火消しが終わると、纏を翻して見せびらかしながら街を練り歩いたそうです。

このように、命をかけて高いところにあがり、また火消しで活躍する鳶職は、とても人気がありモテたそうです。鳶職は派手な羽織を身にまとい、伊達男が多かったとも言われています。

江戸時代の大工の日当は?

江戸時代、大工は花形の職業とされ、比較的賃金の高い職種だったと言われています。調べてみると、『文政年間漫録』という資料に、大工の日当は銀5匁4分と書いてあります。ちなみに、このなかに飯代が含まれているそうです。

銀5匁は「ごもんめ」と読み、銀5匁4分とは、今のお金にすると1万6000円弱くらい。正月やお節句などのお休み、天候休日なども含めると、年間の労働日数は300日弱で、年収は約500万円ということです。

『文政年間漫録』には、大工の暮らしぶりが事細かに書かれており、食費や家賃、家具や道具などの住居費、衣料費、交際費などが記されています。大工は比較的高収入でしたが、これらの生活費を差し引くと残るお金はほとんどなくて、江戸時代の庶民の暮らしがいかに慎ましやかであったのかがわかります。

大工は「右官」

大工とは、主に木造の建物の建築・修理をおこなう職人のことを指しますが、江戸時代よりさらに遡ると、大工のことを「右官」と呼んでいた時代があるそうです。

はるか奈良や飛鳥時代の昔、天皇のために都を建設する職人のうち、建築のうち「木」に関わる職を「右官」、そして「土」に関わる職を「左官」と呼んだそうです。

日本の住まいは、確かに「木と土」でできていますよね。木で骨組みをつくり、土で壁をつくっていました。藁すさなどで土を練り固め、板や茅などで屋根を葺いていました。

大丸建設では、自然の素材を組み合わせた大工や左官の英知を今に伝えているのだと思うと、誇らしいです。

一人前の大工になるまでの厳しい修業

江戸時代に一人前の大工になるまでは、厳しい徒弟制度を乗り越えていかなければなりませんでした。親が手付金を親方に支払い、請書を書きます。だいたい12、3歳ごろに弟子入りするケースが多かったようです。基本的に寝食は与えられますが無給で、年に一、二度里帰りできればよかったようです。

朝は飯炊き、掃き掃除と家の用事から、仕事に行くにしても弁当持ち。技術なんて教えてもらえません。よくて道具の名前を教えてもらう程度。熱心な子は仕事を見て覚えていくこともありますが、厳しい修業に耐えかねて逃げ出す子もいたようです。

 

夕方戻ると風呂焚き、飯炊き、布団の世話と、朝から夜まで親方に仕える日々が続きます。こうした年季奉公が8〜10年続くのです。現代ではなかなか考えられませんね。