2018年11月15日(木)

多摩市の連光寺ってどんなお寺?

大丸建設周辺の「地名の謎」、まだまだ続きます。

聖蹟桜ケ丘の「聖蹟」の由来にもなった多摩市の連光寺。地名でもあり、大丸建設でもお世話になっている大工さんの住まいがあるところでもあります。

 

連光寺には明治天皇の御狩場がありました。

連光寺というと、そこに大きなお寺があるかのように思われますが、かつて蓮光寺という寺院があったと言われています。しかし、現在は地名のみが残り、明治時代の市町村制以来「連光寺村」と呼ばれます。

明治天皇は1881年(明治14年)に初めてこの連光寺村に行幸し、兎狩りや鮎漁を楽しんだと、宮内公文書に残されています。それ以来、明治天皇は4度に渡りこの地を訪れました。1917年(大正6年)までこの御狩場は存続し、即位前の大正天皇や昭和天皇も、この地で栗拾い、キノコ狩りを楽しんだとされています。

旧多摩聖蹟記念館には、明治天皇ゆかりの品々が展示され、天皇家と多摩市の深い関わりを知ることができます。

2018年11月12日(月)

聖蹟桜ケ丘の「聖蹟」とは?

大丸建設は稲城市にありますが、お隣の多摩市にも近く、ショッピングセンターのある「聖蹟桜ケ丘」駅も営業範囲としてよく回っています。

聖蹟桜ケ丘駅は、住所としては多摩区関戸に位置します。なぜ「桜ケ丘」という駅名がついたのでしょうか。

 

聖蹟桜ヶ丘駅が開業したのは1925年(大正14年)。玉南電気鉄道の「関戸駅」として開業しました。その後、京王電鉄に合併し、1937年(昭和12年)に現在の聖蹟桜ケ丘駅になりました。駅の南が桜の名所であったことから「桜ケ丘」という地名がつき、また明治天皇が行幸した場所であることから「聖蹟」という地名がついたそうです。

聖蹟という言葉からすると、つい、キリスト教の遺跡のようなイメージを抱いてしまいがちですが、天皇が行幸した際に休憩をしたり、座った場所、という意味なんですね。多摩市の連光寺は、明治天皇が狩りをした場所として知られ、その際に休んだのが聖蹟桜ケ丘、ということになります。

聖蹟桜ケ丘は映画『耳をすませば』の舞台にもなり、映画ファンの聖地でもありますね。

2018年11月09日(金)

調布は調布でも「田舎の方です」。

今月は、大丸建設とその周辺にある「地名」の謎について紐解いていきます。

私たちは地域密着の建設業なので、だいたい、お客さまの物件を「百村の山田さん」「向陽台の吉田さん」といった具合に、「地名+お客様の苗字」で呼ぶことが多いです。

 

私の実家が「調布」にあるというと、「安田さん、お金持ちなんですね」と言われるのですけれど、その度に「ああ、違うんですよ、田舎の方の調布ですよ」と答えます。そう、調布というと東京都大田区の高級住宅街の「田園調布」とよく間違えられます。

 

調布市と田園調布が「調布」という地名でかぶっているのは、地域的なつながりがあるからではなく、昔々にその地域が税を布で納めていたから、という説があります。歴史の教科書で習った昔の税「租庸調」の「調」を「布」で納めていた地域だから「調布」。それが同じ東京都内に地名として2カ所残り、現在に続いている、というわけですね。

 

ちなみに田園調布がある駅は東急線沿線で、東急電鉄はイギリスの田園都市にならったまちづくりを目指していることから、沿線には「田園」を思わせる地名をつけています。

2018年11月06日(火)

大丸建設、地名の謎

大丸建設の本社がある東京都稲城市大丸。地名は「おおまる」と読みます。でも、私たちの会社名は「だいまる建設」です。なぜ「おおまる建設」にしなかったのでしょうか。

 

大丸建設の始祖は明治初期に天才宮大工との聞こえの高かった石黒善太郎です。初代の善太郎、二代の仙太郎は、それぞれ宮大工として活躍しました。三代目の石黒善次郎が会社の前身となる「石黒組」を組織して建設業としての礎を築き、戦後に株式会社大丸建設として法人を設立しました。

 

その時に社名としたのが「だいまる建設」です。理由は意外と単純で、「大丸(おおまる)にある、大丸(おおまる)建設ではおもしろくないから」という、意外性ねらいでの「大丸(だいまる)建設」命名だったそうです(笑)。今でも、「強そうな社名ですね」と言われることがあるので、三代目の読みは当たったのかもしれません。

 

2018年10月29日(月)

少林寺拳法は心身両面の修行です。

今月は、私が7歳から続けている「少林寺拳法」についてお話ししました。

武道は体が強くなり、充実します。そうすると心も落ち着き、強くなってきます。体を鍛えれば心も強くなる、体(強さ)と心(やさしさ)の両面をバランスよく修養するのが少林寺拳法です。

少林寺拳法を続けていることが私の性格や仕事にどう生きているのかを分析すると、私は穏やかな性格ではありますが、物事を広くとらえることができるようになっているのではないかと思います。何かあっても慌てずに冷静に物事を見られるようになっているのは少林寺拳法のおかげです。

自分や家族を守れる強さを自分で持っていると感じるので、そのための日々の修行なのだろう、と感じます。

2018年10月25日(木)

少林寺拳法は私の「元」

私が今でも少林寺拳法を続けている理由は、子どもの頃に教わった「人間関係、横のつながりの大切さ」を感じる場所だからです。

もちろん、先輩後輩の上下関係もありますが、上下よりも横のつながりを大事にしていて、修練や大会に出ると、同じ教えを学んだ仲間に会えることが大きな励みになっています。

少林寺の教えには、自己を鍛錬して「世界平和を作る」という壮大なビジョンがありますが、自分たちにはそんな大きなことはできないのが正直なところ。

だからこそ仲間づくりをして、同じような考えを持っている人が増えれば、最終的には大きなこと(世界平和)につながるのではないかと考えています。

そんなわけで、何か困ったことがあるごとにみんなが声をかけてくれたり、心配しあったりする関係が続いていて、少林寺やっていてよかったなあ、常に思います。

たまに同業者や職人さんとかで、少林寺拳法をやっている人に出会います。そんな時、とてもうれしくなります。少林寺拳法では独特の仲間意識があり、つながっている安心感があります。

2018年10月22日(月)

私は少林寺拳法4段です。

少林寺拳法では長年修練を積み重ねていくと、昇段することができます。最高位は9段です。

私の師匠は今8段で、東京でもトップの指導者です。今71歳ですがまだまだ闊達で、7歳の私が憧れた時の強さに磨きをかけています。開祖の宗道臣先生に何度か直接教わっているとのことです。

私は今、4段です。35年近くも続けていることもありますが、私はやはり少林寺拳法が好きです。

これまでの受賞歴は、小学校2年生の時に都大会で敢闘賞をとり、高校1年生の時には東京都で2位になって全国大会に行きました。当時は2段でした。その後も都大会などはずっと出ており、少林寺拳法の大会は今でも仲間との交流もできるので、大切にしています。

2018年10月18日(木)

人を生かして人を殺さず。

少林寺拳法には、大きく二つの技法があります。

大きく分けると、「剛法」は突きと蹴り。「柔法」は関節技、投げ技、固め技です。

組手で練習するのが主で、戦うのではなく、演武が正確にできているのか、正確性、気合、速さを競い合います。

運用法というのは、防具をつけて相手と攻撃か守備かを決めて、審判が立っておこないます。

柔法は、テレビで刑事が腕を逆にとっておさえたり投げたりする護身術としてよく出てくるあのシーンを思い浮かべると、イメージがつくのではないでしょうか。

「勝たなくていい」=「負けなくていい」というのが少林寺拳法。「不殺活人」という言葉もあります。人を生かして人を殺さず。悪いことをした人であっても、殺してはいけない。人は生かして治していくものだという、愛に満ちあふれた少林寺拳法の精神がそこにあります。

2018年10月16日(火)

力愛不二という理念

少林寺拳法の一番大きな柱は、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」という考え方です。これは、何事をなす時にも、仲間は自分のため、自分は仲間のためにという考えを持つことで、自分のことは大事だが、半分は相手のことを考えようと説いています。

自己確立(まずはしっかりした自分をつくりましょう)、自他享楽(ともに楽しむ)が第一の教えで、精神修行も含めておこないます。

少林寺拳法は、力愛不二という理念をもっています。拳禅一如であるとも言っています。

「鎮魂行」といって、これらの教えが書いてあるものをみんなで読むことから始まります。

2018年10月11日(木)

70年の歴史がある少林寺拳法

少林寺拳法の開祖は「宗道臣」先生です。

日本に生まれた宗道臣先生は、中国に渡り嵩山少林寺で拳法を学びました。そして、日本に戻って戦後の荒れ果てた地域をみて、「平和で物心共に豊かな社会をつくりたい」と、日本を変えていくためにどうしたらいいのかを考えて考案したのが少林寺拳法です。

宗先生は、説法だけでは人はついてこない。身を守る、道を正すための力も必要だと、「力愛不二の“教え”と自己確立・自他共楽を旨とする“技法”を中心とした、社会に役立つ人づくりの教育システムを考案して、拳禅一如の少林寺拳法を創始」(少林寺拳法HPより)しました。