東北人の強さ

昨年のGW、6月、8月、11月に遠野町や大槌町を訪れてボランティアをしてきたなかで、たいへん多くの出会いがありました。ボランティア同志の出会い、隊長との出会い、そして、現地で暮らしている方との出会い。複数回足を運ぶことで、私のことを覚えてくださる方がいて、再会を喜んでくださったのには、私も励まされました。
 そのなかで感じたのは、東北の方はどうしてこんなに強いのだろうということ。大地震、大津波、その後の生活は、怖いなんてものではないほど、たいへんな恐怖と不安をもたらしたと思います。文字通り生死を分ける体験をしながら、ボランティアで訪れた私たちと食卓を囲み、時には杯を交わしながら、先を見据えて生きている、その精神の強靭さに心打たれました。
 その時、ふと考えました。東京で同じような大震災が起こったら……。私たちはこのように強くいられるのだろうか、と。震災と原発事故以降、東京ではパニック状態が続いていました。まるで東京が被災地であるかのように、混乱していました。なんでこんなに東京では足下がぐらついているのだろう、と不思議でなりませんでした。
 東北に行って感じたのは、地域コミュニティがしっかり息づいているかどうかの差なのだ、ということです。少なくとも私が接していた人たちは、自分のことだけでなく、地域全体のことを考え、先を見据えている印象でした。

リーダーに教わった「3つのA」

私はゴールデンウィークの約1週間にわたるボランティア以降、遠野を拠点に、6月、8月、11月と、大槌町に通いました。
 私が拠点にしていたのは、「遠野まごころネット」で、みんなから「隊長」と呼ばれて親しまれていた林崎慶治さんの人柄に惹かれ、林崎さんも私たちをとても可愛がってくださいました。林崎さんは途中で隊長を辞められましたが、その後も彼個人を頼りに現地へ足を運びました。
 隊長に教わったボランティアの心得で、今でも大切にしていることがあります。「ボタンティアに必要な“3つのA”がある。あわてない、あせらない、あきらめないこと」。ボランティアのために災害があるのではない、災害があったからボランティアが必要なのだ、と、隊長は再三言っていました。ともすると、ボランティアは「してあげている」という気持ちになりがちです。でも、本来は「させてもらっている」という謙虚な気持ちで関わらないと、現地の方々を混乱させ、時には傷つけてしまうことがあります。
 自分が何のためにボランティアに行っているのか、常に原点に立ち帰るための「3つのA」、今でも胸に留めています。

専門家が責任を持ってアドバイスする大切さ

私たちが大槌町に入って最初にやったボランティアは、津波の被害に遭った家の、畳の下の荒板をはがすことでした。畳などを運ぶ作業は同じチームの他のメンバーに任せ、私は建築的見地から、その家を大切に、元に戻せるような形で、板はがしの作業をまとめるように心がけました。
 その家は津波で1階が浸水し、お住まいだった方は「この家にもう一度住むことができるのか?」と心配されていました。私は建築的に判断して、「この家は建物としての耐震性は残っています。きちんと直せばもう一度住むことはできます」と答えました。ただ、津波で浸水した家は、独特の臭気が漂い、それをとることができるのかなど、本当にその家を直して住むのかどうかには、現実的な課題が残ります。
 被災された方々は、本当に生活が再建できるのか、家を直して住めるのかなど、様々な不安を持っています。ボランティアに来る方の多くは、何とか被災された方の役に立ちたいという気持ちで様々なアドバイスをします。「この家は大丈夫なのか?」という問いに対して、気持ちのうえで「大丈夫ですよ」と励ましても、それが建築的な根拠の上に成り立っているものでないと、被災者の方々にとっては、かえって混乱の元になりかねないのを、肌身で感じました。
 私は、アドバイスをするのであれば、自らの専門性を生かし、根拠をもって、的確におこなうように心がけました。責任も伴う判断であり、ボランティアの難しさと専門性を持って関わる意義を感じました。

4月に初めて現地にボランティアに行きました。

昨年の4月下旬からゴールデンウィークの時期にかけて、1週間ほど、東日本大震災の被災地へボランティアに行ってきました。同業の工務店経営者仲間と一緒に2人で、クルマで岩手県遠野市にあるボランティアセンターを目指しました。東京を出た日、私は体調が悪く、翌日からのボランティアに備えて車中で休みました。翌朝、目が覚めて窓の外を見ると、そこには震災以降テレビで繰り返し流れていた、あの映像そのままの風景がありました。津波が街を跡形もなくさらい、そこにあるのは瓦礫の山。骨組みだけが残っている建物、あるいは建物が丸ごと流されなくなり、基礎だけが残っているところ……あまりにすごい現実に言葉もありませんでした。
 仙台から松島、東松島を北上し、遠野のボランティアセンターに入りました。それから私たちは、遠野を拠点に、岩手県の大槌町に通うようになりました。私たちは建築士でもあるので、建築物の解体などでも、専門的な見地から、現場でリーダーシップをとって動くことが求められました。

日頃の備えがあれば、安心して暮らすことができる。

震災後、大丸建設のOBのお客様の家はどうだったのか? 特にお客様から家にダメージがあったという連絡がなく、お客様の無事もわかり、安堵したのを覚えています。耐震診断のお問い合わせは幾つか入り、日頃の地震に備えていくことの大切さを感じました。
 お客様からご心配のご連絡があった時には、「私は震災時に現場で作業をしていましたが、地震の揺れは大きかったものの、家はびくともしませんでしたよ」とお伝えするくらいでした。木造住宅がどのように揺れを吸収し、地震に耐えていくのかを身を以て体験できました。きちんと造られた木造住宅は強い、ということを確信できました。
 地震への対策では、家具を固定する、吊り戸棚にストッパーをつけることなども有効だったようです。大地震では吊り戸棚が開いて中の食器などが落ちて割れる危険性がありますが、数名のお客様から「吊り戸棚の戸につけていたストッパーが地震の時にきちんと機能し、揺れによって食器などが落ちることがなかった」とお聞きしました。
 日頃からしっかり備えをしておけば、いざという時も慌てずに落ち着いて行動することができます。「備えあれば憂いなし」ということを実感しました。

木造建築物と地震

震災の翌日、土曜日も私は現場に行き、仕事を続けました。日曜日がお客様へのお引き渡しの日でした。電気の引き込みだけは原発事故もあったので1日遅れましたが、何とか日曜日にお客様が新居にお引越をすることができました。
 東日本大震災、そして大津波の映像を見て私が感じたのは、津波の威力の大きさでした。最も揺れた宮城県の栗駒市築館地区では、地震による犠牲者は出ませんでした。阪神淡路大震災の時は木造建築物の被害が大きく、建築基準法や耐震性能の見直しなどにもつながりました。東日本大震災では、津波にはどんな建築物も太刀打ちできないと、改めてその威力を感じました。
 震災後、新築住宅の取得が減ったとか、資産を持つことへのブレーキがかかっているなどと言われますが、こと大丸建設に関してはあまりそのようなことは感じませんでした。地震で一軒家がつぶれても、土地は残り、資産を復旧することはマンションなどに比べると比較的やりやすいと思います。地盤の調査や基礎づくりなどをしっかりやることで、きちんと耐震性能のある木造住宅を、丁寧に、誠実につくることの大切さを再確認しました。

東日本大震災から1年、その時私は現場にいました。

2011年3月11日14時46分。あの日からちょうど1年が経ちました。震災で犠牲になった方々のご冥福をお祈りするとともに、震災で被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。
 東日本大震災の発生時、私は家をつくる現場にいました。木製のベランダをつくっている最中に、震度5強の揺れを感じました。大工、職人ともども、すぐに作業をやめて安全を確保しましたが、道路のアスファルトがうねって見えるほどの大きな揺れは、私の人生でも初めての経験でした。
 その時の現場は引き渡しの直前で、最後の追い込みというところでした。会社にも電話はつながらず、家族とも連絡がつきませんでしたが、東京の揺れの程度や、建築中の家は揺れたもののびくともしなかったため、「東京は大丈夫、それよりもお客様にきちんとお引き渡しできるよう、仕事を全うしよう」と決めて、作業を続けました。私は耐震診断技術者の資格を有しているため、状況を冷静に判断できたということもあるかもしれません。
 東京はきっと大丈夫だろう、ともかく慌てずに、今やるべき仕事をしっかりやろう、という気持ちでいました。